その自意識は、必要なものですか?〜シンプルなコミュニケーションを心がけたい

元の言葉に強烈な負のイメージがつきまとう場合、「広義」とか「狭義」とかを表現すること自体、その真摯な意図とは別に、ときに第三者の心に安直に負の印象をすりこんでしまう危険がつねにつきまとう。
木走日記 - 「広義のいじめ」とか「狭義の強制連行」とか〜元の言葉が負のイメージの場合の安直なカテゴリー分けの表現方法としての限界

成功した人の立ち居振舞いに学ぶことはもちろん大切だが、ミスを犯したときの対処の仕方を見ることでその人なりをより深く知ることができるのではないかと最近思うようになった。
冒頭の記事を読んで、同じようなことがリアルのコミュニケーションに当てはめることができそうな気がしたので、本来の文脈とはまったく異なってくることを承知で思いついたことを書き留めてみよう。

「これからしようと思っているのですよ」

さすがに社会に出てある程度過ごすと、公私問わず「どこまでできたか」ではなくて、「できたか」「できなかったか」を二者択一で問わねばならない場面が出てくる。
「あの件は、やってくれたよね?」
たとえば、これからどうしても片付けなければならない課題を前に、準備ができているかどうかを相手に尋ねたとしよう。
「わかっています。これからしようと思っているのですよ」
このような答えが返ってきたとき、尋ねた側はどう思うだろうか。

「できた」か「できなかった」か、どちらかでいい

そのような返事をした人にしてみれば
「本気になればこの程度のことはできるのだけど、たまたま忘れていただけだ」
意識下にはインプットされていても、いちいち訊かれてほじくり返されるのが鬱陶しい。いわば「どうでもいい」感情がその人の心に渦巻いていることは容易に想像できる。
だが、「できなかったあなたの意識」をこちらは訊きたいのではない。
「できたか」「できなかったか」を単純に答えてくれれば、それでその場のコミュニケーションは完結するのだ。*1仮にできなかったとしても、どのように立て直せばいいかは、あとで考えればいい。
にもかからわず、まるでその場を取り繕うかのような修辞や言い訳を垂れ流されると、張り詰めていた空気がどこまでも白けてしまう。

ある意味で喜劇か

「できないのではない。していないだけだ」
あくまでも自分を優位に見立てていたい幻想に頑なにしがみつこうとするその態度。
心の荒涼を相手にさらけだすことで自身の評価を自ら下げていることに気づくことのできないその感性は、ある意味でひとつの「喜劇」にすら映る。
自分自身頭が柔らかくはない年代に差し掛かり始めた今こそ、自戒を込めて。

*1:いじめが原因と考えられうる自殺があった学校にまず問われるのは、「いじめがあったのか、なかったのか」のどちらかであって、内情や程度うんぬんの問題ではないはずだ