ふとした善意が刺さるとき - なにげない会話のなかで
話す側はあたりまえと信じて疑わないことでも、受け取る側はそうは思わないかもしれない。
そういうときも、もしかしたらあるのかもしれません。
「刺さる」善意
- ネットを歩いているときこそ「常識」や「普通」という言葉を見かけたときは斜に構える習慣もつき始めたものだが、リアルの場でそのような場面に出会うと、いやおうなしに冷や水を浴びせられる思いをすることがある。
- たとえば「これくらいの時期ならば、このような状態であることがあたりまえ」というように、世の中には目に見えないルールや基準といったものがどうやらあるということを何気ない会話のなかで感じ取ったとしよう。
- 一般には当然受け入れられていることを前提として発せられる言葉は、時として受け手を戸惑わせる。
- もしも自分がそうでないとするならば、それはそうあろうとしてもあることができずにいるのか、あるいはそうでないことをすすんで選んでいるのか、自覚は当然あったほうがよいだろう。
- だが、相応の事情であったりその状態に身を置くだけの理由があったとしても、話し手は容赦なく言葉を浴びせ続ける。
- なぜなら、それは「善意」で発せられるから。
- 善意は表現されればされるほどその人のためになるという「常識」が、話しかける側にはあるからだ。
善意の「迫力」を感じるとき
- 「もしかして、世間の常識からは外れているのだろうか」
- 悪意や嘲りを話し手の表情や口調から察したならば、違和感を申し立て、時には感情を表出させて距離を縮める余地もあるだろう。
- だが、純粋な善意で発せられる言葉には後ずさりするのみで、正面から異議を唱えることはことのほか難しい。
- それだけではない。時にその言葉は、今まで歩んできた道のりそのものを問い掛けさせる迫力すら帯びることもある。
- ならば、と、大勢に受け入れられている規範を自らに組みこんで、一般的とされる価値観に立って舵を切る選択肢もあるかもしれないとふと考える。
- だが、自明とされるルールに懐疑的であればあるほど、そこからどの程度実りのあるものを得ることができるのだろうか。立ち入ろうとする前に、入口で考えあぐねて踏みとどまる。
- 無垢な善意を額面どおり受け入れるほど、どうやら無垢でもなくなってしまったようだ。
- なにげない会話のあとで、とりとめもなく自身の来し方行く末に思いをめぐらせる。
- そういうときが、たまにはあるのかもしれない。