いつか振り返るためにブログを書く

夢中になっていることでも、いつか思い出になり、あったことすら忘れてしまうとするならば。
どうして書きたくなるのか、そのあたりをほんの少しだけ。

自分は常に入れ替わる

たとえば自分自身を形づくる核のようなものがあってそれが揺るぎないように見えているとしても、その周囲にある感情のセンサーや思考のパターンは、身体がそうであるのと同じように絶え間ない変化に晒されている。
場に身を置いて空気を吸い続けるなかで、時には淀むように、あるいは堰を切ったように。情動や学びの起伏に応じて、旧い記憶は新しい記憶に押されて気づかないうちに入れ替わっていく。

やがて忘れるときがくる

忘れることなどありえないと信じて疑わなかったものが、ある日突然「そのように感じていたこともあった」と静かに横たわる過去として立ち現れるときがある。
はやる気持ちとともに心に刻まれる時間を過ごしていたとしても、少し時機を外すだけで文字に落とすことがためらわれたり、筆を止めたまま無為に過ごしてしまうことは、案外ありがちな話なのだろうか。
だから、楽しくて夢中になれることでもいつか忘れてしまうことがあると気づいたときこそ、価値を見出したものが何であったかを、もう一度見つめてみよう。
書きたくなったときにはそれを書き留めて、自分の引出しにしまいこむ準備を始めればいい。

思い出す場として、気づきを得る場として

まわりの人と書くことが被っていても、以前似たような題で書いていたとしても、動機が自分自身の感覚に根ざしている限り、それを書き残す意味はある。
それが自分にとっては思考のかけらであってもかまわない。思いきってウェブに流してみれば、予想もしなかった気づきが得られることだってあるだろう。
次第に小間切れになっていつか思い出すことすらなくなるかもしれない記憶に向き合いながら、いつでも振り返ることのできる場を用意しておけば、安心して前に進み続けることができるはず。
だって、そのためのブログではありませんか。

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忘却許可。: あんたジャージでどこ行くの
//b.hatena.ne.jp/entry/http://metalsty.seesaa.net/article/25274171.html">:「忘却防止。というブログがあるわけで、これつまり、忘れないように記録するよ、ということなんだろうけれど実際は逆だ。つまり、記録するということの意味、記録する理由は忘れるためである。」
自分のブログを取り上げていただいたことを思い出しました。2006年10月。