時計の針を動かそう

あたりまえのように思っていたことでも、立ち止まって深めてみれば思わぬ気づきが得られるのかもしれない。
振り返ったことを、忘れないうちに書き留めておこうと思います。

自分で時間を止めるとき

たとえば、そのまま受け止めることが難しいことに遭ったときや、自分自身のありかに直接触れるようなものに不意にぶつかったときは、自分で自分の時間を止めることがある。
それは思考を遮ることでこころの安定を保とうとする本能のようなもので、ほとぼりが冷めるまで判断を保留することを無意識のうちに行っていると言い換えてもいい。
もちろん、その間何もしないわけではなくて、そのような時間は、いままで見てきたものを読み返し、振り返り、触れなおして噛み砕くまたとない機会を与えてくれる。

さりげない濃淡を見つけて

過去を咀嚼し、いまある姿を受け止め、その先を見据えるなかで、これまで築いてきた価値と訣別を強いられることが、ないとはいえない。
だがそういうときこそ、自分自身の意識を投じてきたものの傍にある、なんでもない日常に目を凝らしてみよう。
これまで記してきた自分の足跡を注意深く追っていれば、なにげなく接してきたものであっても意識や興味にそれぞれ濃淡があることがわかる。
きっかけが偶然だとしても、自分の意思に従ってほんの少しだけ勇気を振り絞ることができれば、あたりまえのようにそこにあると思っていたことに思わぬ奥行きや深みがあることに気づくだろうし、それがきっかけで自分の知られざる一面に出会うことだってあるかもしれない。
顧みることもなかった日常が鮮やかな色をもって立ち上ってくる強さを感じながら、自分自身の固執してきた価値が数多あるものさしの一つにすぎないことを受け入れることができれば、一人背負ったつもりになっていた頑なな壁やわだかまりは、徐々に取り払われつつあるとみてよいはずだ。

時計の針を動かそう

「そろそろだよ」
いつのまにか、遠慮がちに背後でもう一人の自分がささやいている姿に気づく。
踏みとどまったまま居ついてしまうには、自分にとってそこは眩しすぎたのだろうか。
それとも、もう少し遠くへ跳ぶ勇気を自分はそこで蓄えることができたのだろうか。
その先に何があるかなんてわからない。いや、わからないからこそ、ありのままの自分の声に静かに耳を傾けて、過去の記憶を頼りにしながら、まだ見えないけれど価値があると自分が見定めたものに触れるために、顔を上げてみよう。
それでもためらいがちなときは、顧みた日常から手にした気づきやきっかけを、心の片隅にそっと忍ばせておけばいい。
時には意味に立ち戻り、その都度それを確かめて自分を律することができるならば、覚束ない足取りながらも、再び歩き出すことができそうな気がする。
時計の針は、またきっと動かせる。

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//b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/hatayasan/20070219/p1">Bookmarks:ちょうど1年前に書いた記事。
「結果から見れば遠回りだったとしても、その「ときめき」がこれまで止まっていた時計の針を動かすきっかけになることが、きっとある。」
なんだか既視感があるのは、考えていることがほとんど変わっていないからでしょうか。