ウェブにある限り、いつもそこにある - 更新を止めたサイトからのリファラを見て
二度と更新しなくなったサイトからリファラを受け取ったときに覚えた感情を、忘れないうちに書き留めておきたいと思います。
懐かしいサイトから
- ブログを始めて間もない頃にトラックバックをいただいたサイトからリファラがついていることに気づいて、覗きに行ってみる。
- そういえば、ここにアクセスするのはご無沙汰かも。
- トップに戻り最新の記事をロード。最後に更新された記事にはおびただしい数のコメントが。
- コメント欄には闘病生活を励ますメッセージ。時折見えてくる読者とのやりとり。ふと覚える胸騒ぎ。
- 半ばを過ぎたところで、長い間病と闘った末に、中の人が力尽きていたことを知る。
なぜか覚えた安堵感
息遣い、証拠
ネットに残ったテキストは、その人の意思が途絶えたとしてもその人を伝えつづけるのだろうか。
- その人の息遣い。
- 遺された記事がきっかけで、僕の日記にたどりついた人がいること。
- 記事が綴られた直後の熱気は冷めているけど、リファラを受け取ることで思い出した、中の人の意思。
- その人がいた証拠。
- 考えたことを遺して広く伝え続けるなんて、表現を生業とする人の特権だと思っていた。
- サイトが呼吸を止めて、コメント欄がスパムで汚れていったとしても、綴られた文章そのものが書き換えられるわけではない。朽ちていくことは、滅んでいくことを必ずしも意味するわけではない。
- その人が綴ったブログやサイトは、その人がたしかにそこにいた証拠。
- 遺されたものは読み継がれ、ときには読んだ人の心を動かすこともあるかもしれない。反応を受け止める人は、もうそこにはいないけれど。
ウェブにある限り、それはいつもそこにある
- たとえば更新がめったになくても、足しげく通ってしまうサイトがあるとするならば。
- その人がある日突然ウェブから背を向けたり、あるいはいなくなったとしても、サイトが閉鎖でもされない限りそのことに気づくのはことのほか難しい。
- ウェブにアップされた文章を読み手が自由に解釈することを許されるのなら、文章から滲み出すその人の思考や感情を、せめて自分の中で生き続けさせたいと願うこともあるだろう。
- 時間をともにすることができなくても、遺されたメッセージから「つながる」「理解する」きっかけを感じることができれば、深い安らぎを得ることができるはず。
- 「ウェブにある限り、いつもそこにある」ということを、その都度確かめるように。
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- //b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/webmugi/20060329/p1">:2006年3月。「更新を止めてしまったブログ でも,ときどき,種が芽を出したりする。それがね,やけにうれしいんです。」
サイトが更新を止めても、ウェブにある限りそれは生きているという話。