過去の足跡に出会うとき - 7年前の「駅ノート」の落書きから

この連休に中国地方の無人駅を車で訪ねたときのことを*1、忘れないうちに書き留めておこうと思います。

待合室の「駅ノート」で

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待合室。ゴミ入れの左に駅ノートを仕舞う箱がある。
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バックナンバーも揃った駅ノート。数日おきに書き込みが残っているようだった。

  • 鉄道ファンでなくてもつい立ち寄ってしまいたくなるような郷愁あふれる無人駅の待合室には、訪れた感想を書き留めるノート「駅ノート」が置かれていることがあります。*2
  • その駅の雰囲気に惹かれた有志が用意したノートに、立ち寄った旅行者がよしなしごとを書き綴る。
    • いうなれば、その場所に行かなければ読むことも書き込むこともできない掲示板みたいなもの。
  • 先週ふらりと立ち寄った駅で、以前訪ねたときに残した落書きを再び読むことができました。

変わっても、変わらぬものがあるのかな?

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7年前(手前)と今年(奥)の筆跡を比べてみた。

  • そこを前回訪れたのは2000年11月。ちょうど7年前。
  • 前の日に走ってきたところ。一夜を明かしたところ。これから向かおうとするところ。そしてその駅に込める思い入れ。
    • 熱いというよりか、微熱気味。読んでもらえる人がいるかどうかもわからないのに、無駄に力強い。
    • 伝えるとか読んでもらえるとかを考える前に、何にでもいいから自分の足あとを残しておきたかったのだろう。
  • この7年の間で自分の関心や周りの環境はずいぶん変わった。
    • そのときと比べると変わっていないものを探す方がむしろ難しいのだけど、この文章を今書いた記事としてウェブに公開してもさほど違和感はないように思えた。
    • 足跡を残したことさえ忘れかけていたのに、ノートをめくるや自分の書いたものを一目で見分けることができたのはなぜだろう。
    • 今の自分と似たような”匂い”を知らずのうちに嗅ぎつけたとするならば、環境や嗜好が変わったとしても、”自分らしさ”というものはまるで面影のようににじみ出るものなのだろうか。
    • いや、もしかしたら自分を形づくる”芯”のようなものが普段は覗きえないところにあって、それはあるときを過ぎてからは変わらずにどこかにあり続けるものなのだろうか。
  • 「なんか、最近頭でっかちじゃないの?」
    • ウェブに文章を綴るようになって、まだ見ぬ向こうに「伝える」「読んでもらう」ことを少しずつ意識するようになった。
    • 表出した感情に抑制を課すことで、自分のidのイメージであったり感触のようなものを曲がりなりにも築いてはきたのだろう。
    • だがそれは「思ったことを書き留める」習慣を押し殺してしまうことと、もしかしたら紙一重だったのかもしれない。
    • もっと気楽でもいいのに。過去の落書きに思いがけず”再会”して、ふと諭されたような気がした。
  • また、忘れた頃にこの駅を訪ねることがあるのかもしれないな。
    • 一人頬を緩ませているのを同行者にいぶかられながら、海に向けてハンドルを切った。

*1:そのときの旅日記は「奥出雲のローカル線を訪ねる - JR木次線 備後落合-出雲横田間(ドライブ) - 忘却防止。」、「いまどき硬派な高架の駅 - JR三江線 宇都井駅(ドライブ) - 忘却防止。」参照。

*2:「旅ノート」でも通じるようです。最近じわじわと一般にも認知されつつある「秘境駅」には、こうしたアイテムが置かれている可能性が高いかもしれません。