コミュニティへの「帰属意識」ってどのように生まれるのだろう? - 毎日はてなを使ってはいるけれど

はてな村」って、なんだろう?

はてなを毎日使っているけど、「はてな村」の一員なのかと訊かれると、どうもぴんとこない。
はてな村」について記した最近の記事を読みながら、思いついたところを少しだけ書き留めておこうと思います。

自分が毎日はてなを使っているのは、なぜだろう?

  • なぜはてなを毎日歩くようになったのだろうか?
    • 漠然とした期待?日常?それとも惰性?
    • はてなとは異なるコミュニティに入れ込む必要性を感じないのか、単に面倒なだけなのか。
  • 「たまたま毎日」が長く続いているのはなぜだろう?
    • 単なる惰性や習慣では説明できない、惹き付けられるものがはてなの周りにはあるのだろうか。
    • それはたとえば気になるユーザを見つけやすい「しくみ」であったり、興味深い話題が集まる「場」であったり、あるいは場を盛り上げる「人」に対してであったり。
    • 「あそこに行けば、なにか心をくすぐられるものがあるんじゃないだろうか」
      自分の望むような刺激がいつもあるかどうかはわからないけれど、つい抱いてしまう期待。
    • 時には撫でるように、またある時には深く入り込むように。
      密に張り巡らされたハイパーリンクをたどりながら、いつの間にか横スクロールしなければ一覧できなくなったしまったタブをめくって、一人苦笑い。

点は線へ、やがて面へ

  • たとえばidが自分の中で姿を結んでいくとき。
    • 賑わいのなかであっても、嗜好の近いidは気になるidとして少しずつ連続した点として記憶される。
    • 点と点が重なる場面が繰り返されると、点の密度は濃くなり、やがて点は線を結ぼうとする。「交わり」は、次第に「つながり」に収斂しようとする。
    • 交わりをつながりに強めるトリガーは、対象に抱く興味であったり、もっと知りたいと願う好奇心であったり。
    • 点は線になり、やがて線と線は交差して、次第に面に近づいていく。
  • 関心や興味を結びつける仕掛けが至る所に施されているはてなだと、外から見ればはてなを使っているだけで「コミュニティ」に属している、とひとくくりにされることがある。
    • はてなにおいては、点から生まれるその「面」は閉じたものではなく、実際は緩さや包容力をもった、「網」のようなもの。
    • 網の目の数だけ居場所はあるのだろうし、網の目が限りなく密なところもあれば、密な場所からは遠く離れてはいるけれど確かに息づいているところもあるのだろう。
    • 網の目が密になっている場所で起きていることをもって「網」全体を語りたくなる誘惑。遠くから見れば、確かにそうなのかもしれない。答えのようなものを導くには、ある意味では正しいアプローチなのかもしれない。
    • ただ、それはどこまでも一面を切り取ったものにすぎないような気もする。

好きであることが、帰属意識につながるのだろうか?

  • はてなに浸かっている」というより「はてなを歩くのが好き」。
    • システム、雰囲気、ユーザ。どれもが自分にとって興味深くて、はてなを毎日使っている状態。
    • それは、「帰属意識」につながっていくものなのだろうか?
    • あるいは「帰属意識」を感じるまでのプロセスには、単に「好き」だけではない、もっと複雑なものが隠されているのだろうか?