「自らの意思」って、どこまで自分で判断しているものなのだろう? - よるべない不安を振り払うように
自分をよりどころにするとき
たとえばこれから自分が後戻りできない決断を下そうとしているとき。
- 自らの意思で臨み、リスクを認識している。
- 目標に向けての準備を抜かりなく行ってきた状態。
- 人事を尽くして天命を待つ。
- 自らの意思で臨むが、リスクを認識しているわけではない。
- やる気はあるが、客観的な実力が伴っていない状態。
- 「情熱」の生み出す罠。
- 自らの意思で臨むわけではないが、リスクを認識している。
- 実力はある。準備もしている。ただ目標に向けての情熱が伴っていない状態。
- 主体性を喪った状態で、それでも続ける理由は何ですか?
- 自らの意思で臨むわけでもなく、リスクを認識しているわけでもない。
- ここに来たのは、なぜですか?
戻れない一歩を踏み出したあと、もしも袋小路に陥ったと気づいたときがあるとするならば。
どのような状態でそのときを迎えることを、自分は望んでいるのでしょうか。
「自らの意思」ってなんだろう。
では、そのときの「自らの意思」って、どのようなものなのでしょうか。
- 興味や好奇心が「自らの意思」を育むきっかけになることは間違いない。あるいは、身を置いているコミュニティの場の空気というものも、少なからず行動を選択する際に影を落としているだろう。
- ただそれはあくまできっかけであって「意思」ではないような気がする。
- 自分が自分の頭で主体的にものごとを選択したと判断できるのは、どういうときだろうか?
- 積もった好奇心や興味に火が点いて突き動かされるような衝動を感じるときなのだろうか?
- 好奇心や興味を持った対象に取り組みつづけて、いつか「好き」といえるようになったときにほのかに発露する情熱が実を結ぼうとするときなのだろうか。
- いや、それ以前に「自らの意思」というのは、どこまで高い純度で存在するものなのだろうか?
- もしかしたら、ことさらに「自らの意思」を強調したくなるときというのは、よるべない不安に襲われたときだとは考えられないだろうか。
- 自分自身が人間関係やコミュニティに強く規定され、縛られていることに気づいているからこそ、「自分固有の意思」という幻想にすがりつきたくなることはないだろうか。
- 純粋な「自分の意思」が実はどこにも存在しないことから目を背けたいからこそ、虚空に向けて「自分はここにいる」と叫ぼうとするのだろうか。
で、何が言いたいの?
場面を問わず、「自らの意思」でものごとを選択できる場面というのは、思ったほど多くはないのではないでしょうか。
純粋な「自らの意思」で自分を動かすことができることは、もしかしたらこのうえない贅沢といえるのかもしれないですね。