思考停止したその先に工夫しておきたいこと
「考えつづけること」について話題になった記事を読みながら、自分自身考えることを足踏みするとすればどのような場面があるか、ぼんやり考えてみました。
思考を停止してもいい二つのシチュエーション
- 思考停止したほうがいい場合
- 思考停止したくない場合
「思考を停止すること」が「考えるのを降りる」ことに即つながるわけではなくて。
考えつづけることをあきらめない限り、再び考え始める導線を仕掛けるのは、自分自身。
思考停止したっていいじゃない
「考えるのを止める」ことは、限られたキャパシティのなかで優先順位をコントロールするための知恵。
自分が恐れるのは、むしろ「思考停止してはならない」と自分に縛りをかけること。
蓄積されたものが十分であるかどうか疑わしい状態で、結論を出そうとする。
自分の脳内で理解したつもりになって、それ以上自分の考えを追い深める努力を止めてしまう。
現した言葉を批判されるくらいなら、まだ幸運。
形にもならない言葉を誰にも指摘されず、未熟なことにさえ気づけずに無為に時間を過ごしてしまうのは、悲劇を通り越してもはや喜劇。
記憶を引き出しに仕舞う
考えをいつでも再開できるようにする工夫。
思考を停止に追いやったそれはひとまず置いておいて、自分が普段考えていることを引き出しに整理していく。
「引き出し」とは、情報そのものではなくて情報の見出し。格好よく言えば、インデックス。
引き出しに、手当たり次第考えている途中の情報を詰め込んでおく。
引き出しに工夫を凝らしながら
引出しにしまわれるものの中には、引き出されることをしばらくは望まないものもあるかも。
むしろ、そういう中身に限っていつまでも内容を憶えているもの。そういうものは時機が来るまではあえて整理しないで散らかしたままにしておくのも、ありといえばあり。
引き出しに仕掛けを施しておきたいのは、思考停止したくなかったけどせざるを得なかったことに関すること。
「このときは、ここまでしか考えられなかった。でも、このことは引き続き考えていきたい。」
もちろん、いつかは忘れてしまうことは承知のうえで。
それでも、なるべく忘れないようにする、思い出しやすくする。
だから、そういうものの引き出しには紐をつけておく。
大事にしたい引出しほど、他の引出しを動かせば中身がちらりと見えるような糸を張り巡らせておく。*2
いつか記憶を引き出すことがあったとき、まるで関係のないテーマから考えるきっかけをもらうことができれば、記憶の豊穣に目を見張る瞬間に立ち会うことができるかも。
結果から見れば遠回りだったとしても、その「ときめき」がこれまで止まっていた時計の針を動かすきっかけになることが、きっとある。
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*2:心の琴線に触れたときは引出しが一斉に音を立てて開く、みたいなイメージといえば、わかりやすいでしょうか。