「嫌いであること」を表明する前に考えたい二つのこと
「嫌いという感情を表明すること」についてここ最近話題になった記事を読みながら、少しだけ僕も混ぜてもらおうと思いました。
「嫌いであること」を表明するということ
ネガティブな感情を表に出す効用や副作用などを、大ざっぱに僕は下記のように考えています。
- ネガティブな感情を表明することで、自分自身の精神が解放される効用は確かにある。
- ただし、他人に向けてネガティブな感情を表に出すことは、人間関係の敷居を確信犯で設けるということである。*1
- ゆえに、ネガティブな感情を表明するまでには、相手に対して横たえる感情と相手の価値とを天びんにかける必要がある。
「嫌いであること」を表明するときに考えたい二つのこと
自分自身が「嫌い」という感情を相手に向けるときに踏むであろう考え方を、あえてドライに書き留めてみたいと思います。
- 相手に抱く「嫌い」という感情は、生理的な直感に由来しているのか、これまでの行動の蓄積から導かれたものなのか。
- 明らかに自分と相容れない、ゆえに関係を取り結ぶことは困難であり今後もありえないと見切りをつけるならば、相手に対して「嫌い」と表明することは、自分の立ち位置を明確にする上で有効な戦術。
- 一方で、これまでの行動の蓄積を見てそのような感情をもよおしたのならば、もう少し「嫌い」という感情にまつわる周辺を掘り下げた方が賢明。
- 「嫌い」と表明したい相手は、自分にとってどのような位置を占めているのか。それは有益なものなのか。有益ならば、これからもそれはそうあり続けるのか。
- もはや学ぶことはない、利害関係を持つことはない、訣別できる。その相手との関係を切ったとしても自分が損することはないと判断できるならば、「嫌い」と表明することはモチベーションを高める一助に。
- 一方で、「有益」であることが「嫌い」という感情を乗り越えられないようならば、感情を表明するまでにはもう一呼吸置いてもよい。
損得を勘定しながら
何が言いたくなったかというと、下記のようなこと。
- 人間関係を形作っていくにあたって、自分にとって損得の勘定で決めている部分は思った以上に多い。
- 一方、いったん関係を取り結んだ対象に対してマイナスの感情を面と向かって伝えることは、時として関係を構築したときと同様かあるいはそれ以上の勇気とコストを要する場合がある。
当たり前といえば、当たり前すぎる話なのですけどね。
関連する記事
- b# - 「嫌い」の表明 その2
- 嫌いな人のために心を割くよりも華麗にスルーした方が賢明だという話。不特定多数とコミュニケーションするウェブ上では、最もストレスの少ない対処のしかただと思いました。
- ただ、見たくないものを見えなくするのも、それなりに心に負担を強いるような気がします。
- 「嫌いな存在」に新たな解釈を与えるなど、意義を自分の中で昇華していくことが対象に臨むにあたって最も理想的なあり方なのではないかとも思います。
- suVeneのあれ: 人を「嫌う」ということ(その1.5)
- 嫌いならばあえて「嫌い」と表明してもよいのではないかと提案されています。
- 僕自身、あとさきのことを考えると自分の感情を表明する前にいくつかのハードルをどうしても設けてしまいます。
- suVeneさんのような方からすれば、僕の考え方は慎重、臆病、あるいは保守的に映るのかもしれません。
- メモ - 嫌いな人の投影図
- 「嫌い」という感情を抱くのは、実のところ自分の影に怯えているのではないかという話。
- そもそも関心がなければ「嫌いな人」は視野にすら入りませんね。
- 「嫌いだと意識する時は自分を知るチャンスでもある。」この言葉に深く共感を覚えます。