紙の本に安心を感じるのはなぜだろう〜電子化真っ只中の今に

この前実家に久しぶりに戻って学生時代の資料を整理したときのこと。
「ゼミ」「レポート資料」といったラベルの貼られたフロッピーを発掘。懐かしくなって家で読もうと試みるも、FDDの鈍いモーター音を虚しく聴くだけで中身を開くことはかなわず。
ノートに清書するのをやめてメモに走り書きした内容をPCに入力する習慣を身に付けたのもこの頃。学校で学んだ跡がことごとく消えてしまったことに、少しだけ寂しい思いにとらわれました。

電子化をアーカイブの視点から振り返ると。

「データをアナログからデジタルに移行することで情報を共有化し、意思決定のスピードを速める」
「いま、未来」を向いている限りでは、公私問わず電子化の計り知れない恩恵に僕たちは与っているといえるのですが、「過去を振り返る、知を蓄積する、後の資料とする」といった、“顧みる”視点から見る場合、諸手を挙げて電子化に突き進む前に立ち止まっておくべきことはないのかな、とふと思いました。

ストレージは永遠にデータを保管できるわけではない。

デジカメで撮影した家族の写真など、HDDからCD-Rに落としておけば、半永久的にバックアップがとれるものと思ってました。勘違い。(中略)保存状態が悪ければ、10年くらいでダメになってしまうようですよ。
ネタフル - CDやDVDの寿命

つい最近までCDやDVDは半永久的に思い出を残せるメディアだと僕も信じてきましたが、保存状態が良好だとしても長期保存には必ずしも向かないのではないか、という説が最近は有力になっているようです。

レコードの歴史をたどると、ソフト個々の物理的寿命とは別に、記録・再生する方式が、およそ三十年周期で変わってきたことに気付く。
http://www.kobe-np.co.jp/rensai/cul/026.html

記憶媒体の物理的な寿命がやってくる前に、記録・再生する方式の世代交代が進んでしまうという話。
つまり、結婚式の映像をDVDに保存したとしても、それだけでは永久に保存できるというわけではないと。
データをもし100年読み出せる形で残すならば、3世代は記憶媒体を入れ替えて保存しなければならない、ということですね。

フォーマットは永遠にあり続けるものなのか?

電子化が早く進んだ事業所は、ワープロ表計算に「一太郎」と「Lotus 1-2-3」をまず導入していたように思いますが、いまのオフィスソフトの代名詞はやはり「Word」と「Excel」。
10年程前なら「一太郎の入っていないPC」を見つけることのほうが難しかったですが、今一太郎の文書を完全な形で読み出そうと思ったら、ウェブサイトから「一太郎ビューア」をダウンロードしなければなりません。Lotus1-2-3については、名前を聞くことすらなくなりました。
ですが、ブラウザ上でワープロ表計算の機能を使える「Google Spreadsheet & Docs」などの新興ウェブサービスが雨後の筍のように生まれているのを見ていると、いまたまたま隆盛を極めているフォーマットが10年後も主流であり続けているかどうかは、誰も予想できないでしょう。

紙に安らぎを感じるのはなぜだろう

ここまで書いてきて、「書いてきたこと」や「生きてきた」ことを安心して残すためには、やはりそれなりの努力や工夫が要るのではないかと思えてきました。
暇さえあればネットにつないではてブを続けている今でも、本屋に向かったりお気に入りの本をめくっていると心が安らぐのはなぜでしょうか?

関連する情報

例えば昔のゲームソフトなどを取材などで探そうとすると、パッケージはおろか動いている画面すらどこにもない事があるという。(中略)
半永久的に残るはずのデジタル上の作品でも、その寿命はわずか10年足らずに過ぎなかったのである。
Fukuma's Daily Record: デジタルデーターの寿命

デジタルデータの寿命は思いのほか短いことを、ゲームのハードウェアやCGのソフトウェアに当てはめて考察されています。

電子媒体を保存媒体として用いることは、その将来性は別として現状では、技術標準の未確立、媒体の短命性、読み取り機器の旧式化、定期的な媒体変換の必要性などの点で難点がある。
竹内秀樹:デジタル情報の保存

国立国会図書館の専門家の意見。ある世代のコンピュータ技術から次世代のものへとデジタル情報を定期的に変換していくことを「マイグレーション」と呼ぶそうです。