伝えることをためらうとき〜悪趣味なのか、臆病なのか

変わらないでいることを相手に望むために、その人が知りたいと思っていることを伝えずに立ち止まる自分がいる。
それは「エゴ」かもしれないし、もしかしたら見えない「好意」と呼べるものなのかもしれない。

伝えることに立ち止まるとき

はてな村からは遥か離れてはいるが、自分がブックマークしたくなるような記事を書き綴るブログがある。
いつも揺るぎない沈着冷静な筆の運びと造詣の深さに敬意を表しながらそのブログを購読しているのだが、先日珍しくアクセス数に言及した記事がアップされていたときのことである。
「自分のブログに、もっとアクセスやコメントがあってもいいのに」
見られることや読まれることへの渇望が率直に記されていて、ああこの人もそうなのかと、少しだけ安心する。
「どこからアクセスがくるかわからない」「どう読まれているかわからない」
ひとりごちるような文章を読んだあと、そのブログの開設以来半年以上通っている身として「あなたの日記を定期的に訪問して、感じたことをソーシャルブックマークのコメントに残しているのですよ」と伝えたほうが良いのだろうか、メモ帳を立ち上げて下書きを書きあげる。
だが、単に「自分が知っている」だけの理由で相手に伝えたとしても、おそらくそれは実りの乏しい「お節介」に終わるかもしれない。最後に弱気になって、コメント欄の手前で立ち止まった。

変わらずにいることなんて、できないけれど

なぜ「あなたのブログを読んでいる」と伝えることを思いとどまったのだろうか。
自分勝手な理屈だが、僕はそのブログを秘かに読んでいたかったのだと思った。
そのブロガーは、見られていることに気づかないからこそ、読ませる文章を書けるのではないか。
いるかどうかもわからない読者を自分の中でたくましく想像できるからこそ、歯に衣着せぬ鋭い視点から記事を紡ぐことができるのではないか。
「読まれている」ことを必要以上に意識されてしまうと、そのブログは僕の好きなブログでは少しずつなくなっていくかもしれない。僕はそれを複雑な思いをもって受け止めるだろう。
気づかなければ気づかないままでいい。気づいてもらえたときはありがたい。それでかまわないではないか。

静かにブックマークを続ける

僕がそのブログに向ける視線に対して、ある人は「悪趣味」なイメージを抱くかもしれない。あるいは「臆病」と切って捨てるかもしれない。
ただ僕は、読む者をうならせるような、歯ごたえのある記事をそのブログで読みつづけたかったのだ。
気になる場所だからこそ、開かれてはいるけれどそのブロゴスフィアとは距離のある「はてブ」で、僕は静かにブックマークを続ける。