募金活動に覚えた違和感とは

やや旬の過ぎた感もある「さくらちゃんを救う会」に関する話。
記事にアップするにはあまりに中途半端なメモだが、自分の感じたことを忘れないうちに書き留めておきたい。

「恵まれている」位置から発せられるメッセージ

僕が「さくらちゃんを救う会」がネットで話題になっていることを知ったのは産経新聞の記事「女児の難病移植募金めぐり2ちゃんで「祭り」-ITニュース:イザ!」から。ほぼ同じ時期に、募金活動に対する疑念をまとめた「死ぬ死ぬ詐欺」のまとめサイトはてブ経由でアクセス。そこには、両親の職業や募金団体の疑惑について事細かに記載されていた。
まとめサイトの情報が逐一正確を期したものであるかどうかは、誤解を畏れずに言えば、僕にとってはあまり重要ではなかった。これらのサイトから僕が判断したことは、その少女が紛れもなく「恵まれている」ということだ。
少女は「恵まれている」からこそ、周辺の援助が得やすい立場にいるし、彼ら周辺は情報を効果的に発信する手法に長けている。
だからこそ、普段そのようなことを考える機会のほとんどない自分にこの記事を書かせている。

せきたてられることで感じる違和感

その少女は自分にとって、突然飛び込んできた他者に過ぎない。
見えない他者に対して、僕は自分の思考の枠の中でしか想像を喚起できない。悲しいかなこれが限界だ。だから、この話題に初めて触れたとき、本来は切実であるべき「移植」の語句とは直接関係のないセンセーショナルな語句に惹かれてマウスをクリックしてしまったことを認めなければならない。
救う会」のページに貼られた愛くるしい少女の表情を見ていると、自分の思考の枠を突き抜けて「行動」をせきたてられるような感覚を覚えた。「せきたてられる」とは、行動する前に立ち止まろうとする自分の意思にかかわらず、第三者が意図する方向に自分を誘導しようとする意志を感じてしまった、といえばよいだろうか。
この感覚を、僕は少なくとも「自分の延長にあるもの」として受け入れることができなかった。この件を自分に近しいものとして受け入れるには、言葉にはできない違和感が僕には大きすぎたのだ。

「見えないもの」は見えないままなのか

「見えるもの」に注目してしまうことで「見えないもの」はさらに見えなくなってしまうのではないか。
あまりにわかりやすい、飛びつきやすい物語を目の前にして感じる、見えるものにしか反応できない自分へのいらだち。あるいは急き立てられた刺激にいともたやすく反応してしまう自分へのいらだち。うまく言葉にはできないが自分の中のひねくれた感情が、この件に対して自分を冷ややかたらしめていたように思う。
とはいうものの、僕たちは目の前に見える情報を頼りに日々の行動の様式を意識せぬままに決定していることを知っている。
見えないものにいつも想像力をめぐらせるほど、僕は知的体力も好奇心も持ち合わせていないし、自分自身の生活にそこまで思索に時間を割く余裕があるわけでもない。
だからこそ、僕のよう日常に追われて社会に想像力を喚起できなくなった者の目を惹くには、副作用を承知で見えないものを見せる「劇薬」が必要なのだ。それが、今回の事例に則して言うならば「募金活動」なのだろう。
だけど、僕はそこに違和感を感じてしまった。

わきあがる感情、得たい感情があるとするならば

自分は、この親子のケースからどのような感情を得ようと思っているのだろうか。

  • 「見えるもの」が得をする一方で置き去りにされる「見えないもの」も等価に扱われるべきだという幻想を抱いているのだろうか。*1
  • 他者の力を集めてまで明らかな「矛盾」を突き破ろうとしていることに対する「抜け駆け」感に異論を表明したいのだろうか。

この件に関するエントリをいくつか目を通しながら、自分自身がなぜこの一件にもやもやを拭えずにいるのか、まだわからずにいる。

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「募金には、ある意味で「裏技」的なところがあるからなんじゃないか。」

*1:端的に言えば、生命は等価なのではないかという幻想にしがみつきたい自分がいる