「やさしさ」の拠る立場〜障害者と対等に向き合うこととは

ある昼下がりの風景

月に数度の昼休み、僕の職場にはにぎやかなクッキー売りがやってくる。
介助者に導かれながら地域の作業所からやってくる彼らは、自分たちが作ったクッキーを籠に満載して、部署を尋ねるごとに丁寧に挨拶をしながら職員に売り歩いていく。
僕の隣に座っている先輩は、嬉々として彼らからクッキーを買い上げる。
いったいどんな味なんだろう。興味半分で先輩から分けてもらったクッキーを味わってみる。なんというか、僕には少々味付が甘すぎるようだ。
だから、彼らが無邪気な笑顔でやってきても、僕は彼らの作るクッキーを買うことはない。

対等であるということ

TERRAZINEさんのエントリに影響されて、障害者とのコミュニケーションに関する記事を先日書いたばかりなのだけど、このエントリを読んで『無敵のハンディキャップ―障害者が「プロレスラー」になった日 (文春文庫)]』というノンフィクションを思い出した。
福祉のボランティアをしながら障害者の世間一般のイメージを何とかして変えたいと悶々としていた筆者が、逆転の発想で「障害者をあえて見世物にする」障害者プロレスを立ち上げる話。作品の中では筆者と障害者はまったく対等の関係。障害者レスラーと筆者との“格闘”ともいえる生身のコミュニケーションが不思議にさわやかな読後感をもたらす。
「純真で無垢な障害者などどこにもいない!」と帯に書かれた文句は、当時学生だった自分には十分衝撃的だったのを覚えている。

「やさしさ」の拠る立場

ところで、先輩は彼らからクッキーを買った。僕は買わなかった。両者の間には、下記のような立場の違いがある。

  • 「彼らが障害者だから」、味には触れずにクッキーを「買う」ことをやさしいと考える立場。
  • 彼らが障害者であっても、「口に合わないから」クッキーを「買わない」ことをやさしいと考える立場。

自分自身や自分の肉親がいつ倒れて障害を背負うかわからない。障害が決して自分とは無縁のものではないことを彼らの姿に重ね合わせつつ、頑張る彼らに敬意を込めて「買う」。それをやさしさと呼ぶ人もいるだろう。
僕は違った。僕自身、自分の口にも合わないのに「買う」ことが、かえって彼らに対して失礼な態度のように思えた。彼らは必要以上に自分たちを特別扱いされることを望んでいるのだろうか。障害者として健常者から同情されることを彼らはよしとするのだろうか。直接尋ねたわけではないが、彼らが熱心にクッキーを売り歩いている姿を見ていると、おそらくそうではないような気がした。
だから、自分の嗜好に反してまで彼らに合わせることが、いかにも目上の視線から「買ってあげる」ことを露骨に示すように思えてならなかった。
普段は心の奥深くに沈めている偽善的な感情を呼び戻されるのが、僕は怖かったのだ。

積極的にやさしさを表現するならば

それでも、僕が彼らに積極的にやさしさを表現できるとすれば、どのような選択肢があるのだろうか。

  • 「自分の口に合わないこと」を彼らに伝えることをやさしいと考える立場。

が、もしかしたらありうるのかなあ、と、このエントリを書き終える頃になって思ってみる。

関連する情報

障害者プロレス『ドッグレッグス』
『無敵のハンディキャップ』の著者・北島行徳氏が主宰する障害者プロレス団体のサイト。障害者プロレスの様子を動画で観ることができる。
北島行徳オフィシャルホームページ - 北島行徳 作品リスト
ドッグレッグス」主催の北島行徳氏の著作一覧。