亀田興毅選手の判定勝利に覚える既視感〜10年前の「猿岩石」を例に

プロボクサーの亀田興毅選手の判定勝利について、1週間近く経った今でもネットでは様々な見方が提示されているようである。
僕自身、試合風景やワイドショーのコメントはすべてYoutube経由で観たくらいにこの件に関しては無関心だったのだけど、はてブホッテントリを歩いていて既視感を感じたところがあったので、忘れないうちに書き留めておきたいと思う。

ベタがネタであることが暴露されるとき〜10年前の「猿岩石」を覚えていますか

ベタと信じていたものがネタであることが暴露され、その落差に視聴者が憤慨する。
亀田興毅選手や、亀田親子をバックアップするTBSを批判する記事に目を通していると、いつか味わった感覚を再び体験しているような既視感に囚われた。
思い出したのは、1996年、TV番組「進め! 電波少年」の企画「ユーラシア横断ヒッチハイク」で世間の注目を集めたお笑い芸人「猿岩石」(Wikipediaの解説)である。
年端もいかない芸人二人が手探りで苦難にもまれながら旅を続けていくその様子は書籍化(『猿岩石日記〈Part1〉極限のアジア編―ユーラシア大陸横断ヒッチハイク (角川文庫)』はじめ複数)されて当時のベストセラーにもなったが、途中で飛行機を使っていたことが暴露され、「電波少年」をプロデュースしていた日本テレビと猿岩石は批判の矢面に立たされた。当時10代から20代だった方は、ああ、あの芸人か、と思い出されるかもしれない。
猿岩石のヒッチハイクに夢を託していた視聴者からは罵倒に近い感情的な意見が寄せられていたようだが、「そもそもテレビなど娯楽であり、バラエティ番組に真摯に感情を移入することなどナンセンス」とするオチで論争の幕が下りたように憶えている。
当時の諦念にも近い空気を言い表す下記の記事の固有名詞を差し替えると、今の状況に当てはまる部分が少なからずあることに驚かざるを得ない。

バラエティとは偶然の結果を期待するものではなく、あらかじめ決められたストーリーにしたがって行っている。その途中でのアドリブ(ハプニング)の面白さをミックスはしているがおおむねハッピーエンドに終わるのがオチなのだ。仮に失敗に終わったとしてもバラエティではギャグとして処理されるものなのである。
だから電波少年や同じく雷波少年がやらせインチキ番組だと言って批判するのは筋違いなのである。あれを感動ドキュメントなどと考えるからそういう発想が生まれるのだ。
人生いつもキツイぜ!<やらせと本気の境界線>

ネタがネタと認知されるとき

「猿岩石」が注目を集めたことをよしとして、南米縦断ヒッチハイクなどの似たような企画が別の芸人を使って行われたが、素人目にも彼らが猿岩石のように視聴者の感情に訴えたとは思えなかったし、一瞬は注目されこそすれ、ほどなくメディアでその名を耳にする機会はなくなっていったように思う。
ベタのメッキが剥がれてネタがネタと認定されたことで、ネタをベタだと信じ込まされていた視聴者が離れていったのは想像に難くない。
ネタのレッテルを貼られてしまったら最後、ただの娯楽として消費されてそれでおしまいなのだろう。

メディアリテラシーの話になるけれど

こういうメディアの話になると、学生の時は決まって「メディアリテラシー」の話になったものだ。レポートの課題を求められれば「情報を取捨選択する眼を養わなければならない」と間違いなくしたり顔で書いていただろう。
しかし、ウェブが隅々まで普及して求める情報にアクセスしやすくなった今こそ、情報の真贋を見極めることが逆に容易ではなくなっていることを、情報の流れが複雑化していく「web2.0」の持つ見落としがたい側面として、僕たちはそれとなく気づいている。
メディアが視聴者にアプローチするパラダイムが視聴者優位に変わろうとしている空気にあっても、「持つ者」であるヘッドと「持たざる者」であるロングテールの質の差はたやすく縮まることはないように思える。
自分自身の依拠する情報源が偏ってしかも限りがあることを認めたうえで、「持たざる者は進化する」ことを頭の片隅にでも意識していなければ、いつか見た騒ぎは、また繰り返されるのだろう。