セルクマなんて、恥ずかしいと思ってた〜自分のエントリをブクマするということ

セルクマは恥ずかしい

はてなダイアリーを恐る恐る始めた今年の初めごろ、自分のエントリを自分でブクマしたらはてブユーザの注目を集めやすいのではないかと脳天気に考えていたが、はてブの世界にはこの行為が快く思われていない、作法のようなものがあることがわかった。
自分で自分のエントリをブックマークすることを少し揶揄気味に「セルクマ」というらしい。自分のエントリをブクマすることは造作もないことだが、ブクマが続かないときのリスクや他人の視線を気にする自意識が邪魔をして、ブクマするに至らないという。
何のことかよく理解できずにいたが、ブログを書き始めて1ヶ月ほどして初めてブクマをもらって以降、先人の苦悩を自分でも痛いほど感じることになった。
ホッテントリ閾値に届きそうなときは店頭に並んだ自分の分身の応援の一つでもしてやりたくなる。しかし純粋にも「ブクマ数=自分のエントリへの共感の度合い」と捉えたい自分がブクマを拒む。自分のブクマで自分の分身に下駄を履かせるようなことはしたくない。セルクマは恥ずかしいことだと先人から深く影響を受けていたのだと思う。

訪れた転機

頑なにセルクマを戒めて続けていた転機は意外に早く訪れた。
2006年5月下旬にはてブスフィアで話題になった「はてなブックマーカーへ50の質問」で、50の質問に答えたエントリには「50q」のタグをつけてはてブに放り込んでいたのだが、それがブックマーカーの目に留まって、bot混じりとはいえ注目のエントリー閾値を超えたのである。

自分も「50の質問」には回答していた。ここで自分のエントリもブクマしておかなければ、自分のブックマークに目を通した人は自分のエントリに気づかないまま去ってしまう。ということでセルクマ。意外と抵抗は少なかった。

セルクマを考える3つのシチュエーション

「50の質問」での経験があって、セルクマは必ずしも恥ずかしいことではないと思うようになった。セルクマを考えたくなるシチュエーションについて、思いつく限りで書き出してみよう。

  1. 記事を記録するとき
    • 口の悪い人は「宣伝」と罵るかもしれない。特にホッテントリ閾値前後のセルクマはそのように捉えられやすくはあるだろう。しかし自分が渾身を込めて書いたエントリを、自分の記憶として、記録としてはてブに放り込むことを誰が責められようか。
  2. 記事を分類するとき
    • たとえばはてブ論やブログ論、山登りの記録などのまとめなどを作るとき、自分の記事もわずかながら含まれることがあるだろう。他人に利用してもらうことを前提としたとき、自分の記録も検索可能なものとして扱うかどうかという、自意識とはまた別の視座から。
  3. ユーザとコミュニケーションするとき

セルクマの呪縛から解き放たれるほどに、ユーザのリテラシーは習熟しているとはいえないか

何が言いたくなったかというと、至った動機や理由を説明できる限りにおいては、自分で自分のエントリをブックマークすることもはてブの立派な使い方の一つであるということ。
自分で「下駄を履いて」運良くホッテントリ入りを果たすことができても、その先どこまで伸びるかは賢明なはてブユーザが審判してくれるだろうし、然るべきエントリはさらに多くの支持を集めることになるだろう。