なぜブログで想いを発信するのか、自殺予告に付き合ったブログを読んで考えた

一昔前は2chで「自殺します」宣言がなされて掲示板の住民を慌てさせていたが、最近は舞台がブログに移っているようである。
自殺予告をしたブロガーに付き合った記録を綴ったブログを見つけた。

突然出された「自殺宣言」。慌てた周囲のブロガーからさんざんコメントを集めておいて、「予定日」になって彼女は自殺を撤回。「感受した生のひそやかな愉楽を隠しながら、女王か何かになったような気分で毎日生の充実感をさぞ満喫しただろう」と呆れ気味に酷評。

興味を持ったのは、世界に希望を見いだせない精神の状態にあってなぜ彼女は自分自身の不安を世界に向けて開陳したのだろうかということ。以前にブクマしたフレーズを思い出したので引用してみよう。

多くの人がウェブサイトを開くのは、別にウェブジャーナリズムの一翼を担うためなどではなく、「わたしがここにいること」を誰かに承認してほしいからだろう。星の数ほどある個人サイトのすべてが、「わたしはここにいます!」という叫びなのだ。
読冊日記 2003年 5月30日

翻って自分に置き換えて考えてみよう。
自分は、リアル知人にブログをやっていることは一切知らせていない。生活とはあまり関係のないことをテーマに書くことが増えてきている最近にあって、変人扱いされるのも具合が悪い。にもかかわらず、日記をプライベートモードにせずパブリックに閲覧OKにしているのはなぜだろうか。自分の素性を知っている知人がgoogleで適当に検索すれば自分がはてな界隈で屁理屈を書き散らかしているのはわかるはずなのに、それをわかったうえで放置しているのはなぜだろうか。
単に面倒くさいのだろうか。しょせんメモ書きなので誰に見られてもかまわないと無防備を決め込んでいるのだろうか。
あるいは、表面では意識することのできない意思が自分の行動を縛っているのかもしれない。
「こちら」側で断絶したコミュニケーションをどこかでつなぎ合わせる可能性を静かに待ち望んでいる、という仮説は考えられないだろうか。
想いを「あちら」に託して「こちら」側の知人の反応を秘かに期待しているのではないかと。
積極的にブログを書いていることを「こちら」には知らせずに一見矛盾しているようだが、その意味では、自分は本質的に受け身なのかもしれない。
まあ、mixiに引き籠もるつもりもないし、単にのめり込む時間がないと言ってしまえばそれまでなのだが。
これって、考えすぎ?