遭難事故の新聞記事を転載するとき、遭難者の実名の記載に配慮することはリテラシーに含まれるのではないかと思ってみた

山スキーを趣味の一つにしている自分は、「山スキー」のキーワードでgooブログからRSSフィードを取得してはてなRSSで購読しているのだけど、4月8日〜9日の長野県方面では雪崩による遭難事故が相次いで発生、その背景や記事に言及したエントリも少なからず捕捉した。
新聞記事を転載するのはソースを明らかにするうえで必要なこととして、遭難した登山者の実名をフルネームで転載したエントリに遭遇、なにがしかの違和感をぬぐえずにいる。
この感覚はどこから生まれてくるのだろうか。

4月8日に北アルプスで発生した雪崩事故を取り上げたエントリ

二つのブログから、同じ雪崩事故を取り上げたエントリを抜粋。
前者は「遭難者の実名をフルネームで転載して高みから評論。本人匿名」、後者は「遭難者の実名は苗字のみ記載。本人匿名」。
書いた当人は匿名で安全な位置にいながらも、実名をそのまま転載して事故を手厳しく「評論」した前者のブロガーは、何が動機でこのエントリを起こしたのだろうか。
危険で無知な登山者を社会に代わって裁きたいとお感じになったのだろうか。自分のエントリを機に登山のモラルの向上を訴えたかったのだろうか。あるいはそんな高尚な感覚以前なのかもしれない。新聞記事を切り抜いて自分だけのノートに書き留める感覚なのだろうか。それとも近しい人限定の井戸端会議の感覚でいらっしゃるのだろうか。

なぜ実名で転載することが気になるのか

ブログ上での実名の転載が気になるのは、新聞社の記事が3ヶ月ほどでアクセスできなくなっても、エントリは残って検索可能な状態であり続けるからだ。googleやYahooで実名で検索すると、事故とは直接関係のない本人の経歴や履歴が必要以上にわかってしまう。おそらく書いた当人は気づいてもいないかもしれないが、たかが転載と侮るなかれ、思わぬ被害が遭難者にもたらされる恐れすらある。
遭難したのは本人の「自己責任」だから多少手荒にもまれても仕方ないのだろうか。ならば

  • 本人が同じようなトラブルに見舞われたとき、匿名掲示板などで自分の名前が晒されて近親に好奇の目が及んでも、甘んじて受け入れる
  • 遭難者の行動を大上段から論評できるだけの、本人の裏付けられた経験を詳らかにする
  • あるいは実名でブログを記し、エントリに責を引き受ける

覚悟はご本人にはおありなのだろうか?
枝葉末節なことかもしれないが、ネット上での情報の伝播力を考えて新聞記事の転載にも配慮することはリテラシーのひとつに含まれるのではないかと思ってみた。