エントリをアップすることそのものが目的になっていないか、一歩立ち止まってみよう

ブログを書き始めて3ヶ月も経てば、自然とアクセスの数が気になってくる。
はてブで自分のエントリがブクマされていないか淡い期待を抱きつつ、googleの検索窓に「id:自分のID」を放り込んで「http://d.hatena.ne.jp/自分のID/ の注目エントリー」を1日に2度はチェックしている自分がいる。
「何のために自分はブログを書いているか」目的が揺らいでいるように感じているなか、下記のエントリを興味深く読んだ。

自分自身の戒めとして、知らないことは知らないと書くし、あまり知らない分野について発言する時は、あらかじめこれは知らない人間による発言だと宣言しておき、推測であることを書いておくようにしてます。自分は知らないことはありませんよーという態度を取るつもりはないということです。
だから、自分の価値基準として、本人がよく知らないことに関して謎の断言などをしている人に関しては評価が低いです。
ARTIFACT ―人工事実― : ブログのワイドショー化

なまじブログを書き始めると、はてブテクノラティの空気に流されるように、時事ネタに触れておかねばならないのではないかと強迫観念に襲われそうになることがある。
空気というのは恐ろしい。googleWikipediaを手繰って適当にテキストを切り貼りすれば一見もっともらしいエントリの出来上がり。話題に言及しただけなのにいっぱしの見識を持ったプチ専門家気取りに。
こうして、自称評論家があちこちのブロゴスフィアに誕生するわけだ。

かなり多くのマニア諸氏にとって、毎日たくさんの作品を消費するにあたり、作品個々の内容の吟味をする事よりも、自分の履歴にその作品を読んだ/観た/プレイしたというステータスを加える事のほうが優先する……つまり例えば「ああ、●●というノベルは読んだことありますよ」と言える自分になることが目的化される時期や状態というのがあるような気がします。
身辺雑感/脳をとろ火で煮詰める日記: マニアが欲するのは作品体験か、体験したというステータスか

ブログに限らず同質のコミュニティに属していると、いま注目を集めている話題についていけないことほど疎外感を感じることはない。
なまじ自分の存在感をアピールしたいがために、実力があるかどうか怪しいのに中途半端な知識をひけらかして自ら評価を下げる人をこれまで何人も見てきた。
その人にとっては、そのコミュニティに認められることが目的だったのか、それともコミュニティの中で自分を鍛えることが目的だったのか、まだわからずにいる。

ブログのはずがマス媒体気分になってしまう、というのはブログのアクセス数が増えてくるとよくはまるワナなのではないかな、と思う。
忘れちゃいけない。ブログは自分のために書くのだ。
ふとしたブログ論 | 近江商人 JINBLOG

アクセス数が増えてくると、ネットワークの向こうで目を通してくれる方が少しずつ気になってくる。
意識しない限り、「自分の考えを言葉に残す」ことよりも「エントリを上梓すること」が目的になっていく。
ただこれでは本末転倒。原点は「自分のために書く」ことにしかない。
自分の身の丈で地に足を着けてものを考えていく姿勢を忘れずにいられるだろうか。