心を揺さぶる名文は、玉石混交の中に埋もれている〜登山に臨む姿勢から

最近「わらじの仲間」で登られている野上伊作氏の日記から。
このように真摯に山に向かえる姿勢を、爪の先だけでもいい、見習うことが出来ればと思う。

35という歳を今日迎えてしまったけれど、これから自分の人生がどうなるのかまったくわからない。笑顔で酒を飲む夜もあれば、どうしようもない絶望と過ごす夜もある。しかしどんな人生でも死が必ず救済してくれると思うと、自分の場合少しは心が安らぐのであるペシミストというなかれ…カスタネダネルーダを読めばわかる。南米の陽気な文化の根底には必ず死の影が潜んでいるのだ。生を強烈に謳歌しようとすれば、強い光の下に濃い影ができるように死が鮮明に浮かび上がるものだ。
山に付きまとう死の影、それが今の自分を正気たらしめていると思う。(中略)
今の文化、いや社会に圧倒的に欠落しているものは「死」そのものだ。見る価値すらないテレビや雑誌、社会そのものが死を隠蔽しようとしているように思う。「性」と同じように「死」も正しく伝えることが出来ない社会だから、この世の歪みが生まれてくるのではないか。
(太字:引用者)
ROCK&ICE WORLD: 2006年3月7日

野上氏の日記のこの言葉に鋭く反応したとき、以前心を揺さぶられた沢屋さんの言葉を思い出した。もう一度引用しておく。

死の臭いの漂ってこない今の日本は幸福な様であり、また同時に不幸であるような気がする。死がリアルな存在として認識されるならば、生もよりリアルな存在として実感されうるであろう。(中略)
たしかに単独行はこわい。でもその怖さは認識されている怖さであって、実際の怖さは何も変わりはないのである。むしろ認識されない怖さの方が恐ろしいのかもしれない。
(太字:引用者)
がっちー: 放浪日誌