ケータイでの死に顔撮影は、個人情報保護のどことつかなさにもつながっている

お葬式の際、亡くなった人の顔をカメラ付き携帯電話などで撮影する人が増えている。
お葬式:カメラ付き携帯で最期の顔パチリ 困惑派・理解派−話題:MSN毎日インタラクティブ

この記事を読んで、ケータイで故人の顔を撮ることに生理的な嫌悪感を覚えるのは単に自分の頭が硬いだけなのか、下記のエントリに同意しつつもずっと引っかかるものがあった。

「遺体が神聖不可侵」かどうかって問題じゃなくて、単に相手の気持ちより、自分の欲望を優先させてるだけってことじゃないすか?
大学教員の日常・非日常:デジタルにならないもの

今日、職場で新聞の切り抜きを見て急いでコピーを取った。
武田徹の「複眼鏡」(産経新聞 2006年2月27日)より。(ネット上では流通していない模様)。「ケータイで死に顔を撮る」ことへの違和感と広い視座を提供してくれる一文だった。

どこにでも土足で踏み込んでよいというわけではもちろんないが、個人情報はすべて秘匿されるべきだとも断言しきれない、ケース・バイ・ケースで対応を使い分ける臨機応変の「柔らかな」論理がその対応には必要なのだ。

…ケータイでの撮影に嫌悪感を感じるのは、その映像が本当に故人を偲ぶではなく、興味本位でメールに添付されて次々に転送されたり、ネット上にいたずらに公開されたりされるのではないかという懸念からだ。
個人情報保護の必要性が唱えられ、公式な場所で個人情報が流通することは減りつつあるが、一方でケータイのカメラや、街中に数多く設置された「防犯カメラ」が撮影した大量の個人情報が水面下で蓄積され、時に非公式に流通している。そうしたアンバランスな状況がむしろ深刻化しつつあり、個人情報保護法が成立しても個人情報を私たちはうまく扱えているとは言い難い。そうした問題が死に顔撮影にも影を落としている。
産経新聞 2006年2月27日「複眼鏡」武田徹

先日のエントリにも書いたように、自分がケータイで死に顔を撮ることに違和感を覚えるのは「過去の経験の蓄積で形成された生理的嫌悪感」に端を発するものでしかない。
個人情報保護法が施行されて世間は個人情報の流出にことさらに敏感になり、公には個人情報が表に出ることは少なくなっても、巷に緻密に張り巡らされた個人情報のネットワークのおかげで、僕たちは便利な生活を享受している。
市井の一個人であっても情報をたやすく発信できる今だからこそ感じる、焦りに近い不安なのか。
それとも、「死生観の変化」という言葉でしか捉えられないけれども、まだ視えないその先に違和感の源があるのだろうか。